修理人には子どもが2人居ります。
長男は現在19歳で、高尾山の麓にある「栄茶屋」さんで土日祝日は朝から晩まで皿洗い&蕎麦茹で&少しだけそば打ちもさせていただいているようです。16歳からですから、はや3年目です。あと10年くらい年季を積んで一人前になったら、独立して店を出しますのでお金の計算が出来て接客が嫌でなく、同居うんぬんでガタガタ言わず家族経営も率先して束ねてくれる嫁さんを今のうちから募集します。「我こそは!」と思うかもしれない方は、あと10年くらいはたくさんの恋愛をして泣かし泣かされ、人生の経験を積んでおいて下さい。学歴、初婚、再婚、子持ち、出生地、国籍、思想、家柄、歳の差などの一切を問いませんが、オヤジである私の考え方を理解しようとする姿勢だけは必要です。
毎回毎回お兄ちゃんの事は書いてますが、世間の荒波をフォワードループして骨折したり、バックループして潰されたりしなければならないので、そろそろ娘の事も知っておいていただきたいと思っています。
学習塾から天声人語の読解が消えた?
一連の「朝日新聞の報道問題」について、生まれたときから44年間朝日新聞を取っている修理人としては、今後起こりえる様々な事象について危惧するところがあります。
修理人は、直接娘に「勉強をしろ」などと言ったことは無いですし、心臓外科医になりたくて自分の意志で勝手に学習塾に行っているのは娘なので、その塾の指導方法についても口を挟む事はありませんでした。
しかし、2014年8月の夏休みいっぱいまでは毎日「天声人語」の読解に積極的だった塾が、9月に入ってから「天声人語」の読解を一切しなくなりました。
詳細な理由については、塾長との面談の時に聞こうと思っていますが、なかなか興味深い事です。
学習塾の指導方法に興味がわいて来た!
学習塾というところは、子ども自身に成長の喜びを実感させながら年齢に相応した基礎学力と、それらを元にした応用技術を習得させる場所だと考えておりますので、その指導方法は個人個人ケースバイケースで異なって来るとは思いますが、「天声人語」のように100年の歴史を持ち、今までも様々な受験問題に出典として取り上げられて来た記事が、進学塾の指導内容から消えてゆくとなると、これは日本の教育界におよぼす影響はとても大きいです。
進学塾の合格判定テストの不思議
他人の子の資料を使うわけにもいかないですから、自分の子の偏差値変動から見た塾の合格判定テストの疑問点について。
下の資料は、実際に娘が受けた「都立中合判」というテストの9/13第1回成績と「都立中合判」テスト前、夏休み前7/13のプレテストの比較です。
一番気になったのは、左下の「成績履歴」という偏差値推移です。
プレで38.6〜34.0だった偏差値が、たった二ヶ月で73.7になるわけがありません。
塾の指導方針としてなのか?
夏休みの合宿や夏期講習の「結果を数値として本人や親に見せたい」という意図が感じられてなりません。
結果的に本人の自信になれば良いですが、この成績表の出し方に対する塾側の指導意図が明確でない場合、こういう結果は学力が非常に不安定であり性格的にムラがあると考えざるをえません。
さて、どうしたものか? と、はじめて子どものお勉強方法に疑問を持ったのでした。
修理人の子どもの育て方
修理人は10歳で自分の将来を自分で(とりあえず)決める事が、楽しい将来への第一歩だと考えています。
これは、ドイツのアウグスブルグで18歳で出会ったシーメンスの社員と、その家庭での子どもの育て方にとても感銘を受けたからです。
私は子どもが8歳になるまで、全ての休みの日は子どもと過ごす時間に充てました。サーフィンもウインドサーフィンもスケートボードも仕事までも、生活の中心ではありませんでした。私にとっては当たり前の事ですが、なかなか他所様のご家庭では単身赴任や転勤等で難しい事なんだなぁと思っています。
そして、出来るだけ早く「挫折を経験して欲しい」と願っています。
それは、受験でも進学でも就職でもいいですし、自分の夢に努力が届かないとか、とても好きな人にふられてしまうでも、何でもいいんです。
そして、全て自分が決めた事、全て自分が通った道、全て自分が選んだ事だということを、あらゆる運も病気も怪我も含めて、生きる全ての事を自分のモノとして生きていってくれる事を願っています。ですから、殆ど親として手を貸す事も命令する事もありません。
親に出来る事は、飯を食わせる事と、子のしたい話を聞くだけ。
たったそれだけしか出来ないんだなぁと、思っています。
天声人語について
私は小学生の時から「天声人語」という言葉自体に、とても違和感を感じてきました。
なぜなら、天の声を人が語るという超上目線で書かれている内容の割りには、3割りくらいしか心に響かなかったからです。
文章としてはとても読みやすく感心しましたし、伝えたい内容と伝わる内容を、これだけ上手に文章として書く人達を素晴らしいとも思っていますし尊敬もしています。
もちろん、3割り響けばたいしたものですが、せめて「民声仁語」くらいの心意気ならば、もう少し読者の理解を得られたのかもしれません。