修理人は、全盲の生徒を負傷させたのは「不寛容が引き起こす社会的虐待」であり
社会を構成する人々や、それを統治する政治が取るべき施策に「他者への愛が薄くキチンと甘えさせる余裕が無い」からだ。
と考えています。
「小江戸川越」で知られる埼玉県の川越で事件は起きました。
”全盲女子生徒:足蹴られケガ つえで転倒の腹いせか 川越”
修理人にとってこの事件は、対岸の障碍者暴行事件ではありません。
なぜなら、自分が13年前に養子に取った長男は「軽度の知的障碍がある」と小児医療機関で診断され通院していたので、八王子児童相談所に福祉サービスを受けられるよう2度「愛の手帳」を申請しましたが、IQ65~IQ75程度の検査結果が毎回出るため、一度も社会的優遇措置を得られることはありませんでした。また、近隣住民や友達、お客様の中にもにも知的障碍者の方や身体障碍者の方がいるので、日ごろから彼らと共に過ごすことや会話に違和感はありませんが、彼らがただ生きて行く中で、明らかに私より多くの困難を抱えていることを実感しています。
私の友達である田川ヒロアキ君も、全盲のギタリストです。
彼がブログの中で綴った不安を是非読んで欲しいです。
”全盲歩行の事件 New!”
彼の言葉は、彼自身が全盲であるがゆえに、生の経験から発せられた言葉です。
但し、今の世の中は、必ずしも全盲の被害者への労わりの気持ちだけが伝わるわけではありません。
私は引用しませんが「加害者の行為に同調する」意見や発言が、多くの場合匿名で飛び交っていることも事実です。
なぜ?身体的に不自由な人に危害を加えた加害者の行為に匿名で同調するのか?
私は、このような考えを発する人達のことも考えてみました。
暴力を商売や生業としている人を除き、暴力行為行ったり肯定する立場を取ったり、可能性を示唆する人の心の中には必ず「甘え」がある。と私は考えています。
なぜなら、私自身を例にとって見ればよくわかるからです。
例えば「死刑」について、私にキチンと説明させて頂ける機会があり、意見の異なる他者の言い分を聞き入れようとする姿勢で迎えてさえくれれば、たとえ全く反対の意見の人にでも「死刑」という社会的制度に絶対反対の立場を取る私のような人間がいる事を、納得させられるだけの理由を私は持っています。しかし、仮に私の子供が他人に怪我を負わされたり殺されたなら、私はその相手を社会や司法制度に頼らず、この自分の手であらゆる手段を使って同じ目に遭わせるはずです。 そこで、なぜ私はそのように考えるのか? と疑問を持ちました。
その理由は、現在の社会や司法制度では、根本的に痛みを負った者に対するバランスが取れないからだと考えました。
社会的制度としての「死刑」は、示し合わせた上で行われる社会的集団リンチに等しく、何の改善も解決も考えることも放棄した抹殺ということでは無いのか?と、感じます。
しかし、どんな言葉を並べ立てても、私の腹の中に残るのはたった一つです。私の子供が負った境涯を鑑みれば、復讐は赦されるべきものだ。という「甘え」があるからでは無いか?それは、自分自身が否定している「死刑」という抹殺制度を、自分自身の行動が覆す瞬間ではないかと懼れています。
つまり、自分が現在生きている「境遇」や「立場」、「仕事」や「人間関係」、「家族」や「友達」など、あらゆる生涯環境に対して、理不尽であろうが無かろうが、それらを「受け入れる」ことが出来なければ、いつでも自分は加害者になれる。ということを意味しています。「受け入れる」ということは、お互いにとって良好な関係をなかなか築けない事や、虐げられることを「諦めろ」と言っているのではありません。よくかみ締めて原因や理由を考え、今の困った状況や関係を改善できるように自分から考え、相手にも考えてもらえるように行動する事です。
人は諦めてしまうと、自分が負った(負わされた)負の遺産を抱えながら生きて行く中で、必ず他者と自分を比較しバランスを取ろうとします。だからこそ、身体的に不自由な人に危害を加えたあわれな加害者と自分の置かれた状況を鑑みて「同調」することで、自分も抱えている負の遺産と相殺するよう、バランスを取っているように映ります。
苦しい境遇の自分を自分自身が哀れみ、自分だけの力では「受け入れる」ことが出来ない者ほど、他者に対する甘えは強くなるのです。
その甘えは、うすうす本人も理解しています。ですから、恥ずかしくて実名では同調できません。
しかし、「甘える」ことは恥でしょうか?
私はそうは考えていません。
子供も大人も同じですが、「甘える」ということは人間にとってとても必要な事です。私は子供達に甘えますし、家族にも甘えています。家族も私に甘えますし、私の母でさえいまだに私に甘えますが全然悪いことではありません。それは、家族関係ではなくても、近くで実際に会える場所に甘えられる人が居る。ということはとても大事なことです。もし居なかったら、会ったことも無い他人にいきなり甘えることになります。それは形を変え暴力という「甘え」になる場合もあります。
虐待も当然「甘え」です。親が子供を虐待するのは、自分が置かれた(選んだ)立場を受け入れることなく、自分は「甘えさせてもらっていない」という諦めや我慢が蓄積され、心理的に追い詰められ自分を哀れんだときに、それすら受け入れられず、目の前で「甘えようとする」子供の行動を阻害することでバランスを取ろうとしているのでは無いでしょうか? 「大人も困っていて大変だからお前も困れ」と。
「甘え」というのは、甘えたい人の言う事を全て利いてやるということではありません。
私が子供達に与えないものの中に、携帯電話やスマートフォンがありますが、仕事もせず学生という立場の者に、自ら考える時間を一方的に奪ってしまい、不用意に他者の「甘え」に付き合わされ、その崩れたバランスを補う為に自分自身も不用意に相手に「甘える」という身勝手な悪循環を引き起こす場合があることを、実際の友達関係や学校、塾などで肌身で感じて「受け入れられる」ようになるまで与えません。わざわざ学業に力を入れるために自分の大切な時間を割き、集団生活という檻の中で様々な関係性やコミュニケーション能力を磨き、スポンジのような脳みそにたくさんのデータを叩き込む機会が与えられているのに、実生活での他者とのコミュニケーション経験が少ない者が、電子通信機器でのコミュニケーションの煩わしさを学んだところで「諦め」以外の何も学べないと考えているからです。
ましてや、おもちゃを買ってくれとせがむ子供におもちゃを買ってやることも、買ってやらないこともキチンと甘えさせてはいません。
必要以上に孫に玩具やおもちゃを買ってやることは、孫の喜ぶ顔やはしゃぐ顔が見たいというお年寄りの「甘え」で、決して孫を甘やかしているわけではありません。
私は、他人が子や孫を、どの様に育てるか? どのように甘えさせるか? については、それぞれの考えがあるはずだ。と思っているので、良いとも悪いとも思いません。それは結果として、将来その親や家族の目の前で大きくなって存在しているはずなので、勝手に実感するものです。
「甘え」というのは、甘えたい人の「心の不安に寄り添うこと」だと考えています。
子供であろうと家族であろうと、友達であろうと仲間であろうと大人であろうと、目の前にいる相手が「これからも、できるだけ人に頼らず自立してゆく中で、心に抱える不安をそのたびに何度も何度も乗り越え、人間が本来死ぬまでに手に入れたいと渇望している真実の為に心に寄り添い、相手自身が考えるということを支えること」がキチンと甘えさせることだと私は考えています。
「不寛容が引き起こす社会的虐待」はこのままでは毎日繰り返されます。
是非、これを読んで下さった皆様には「愛」と「甘え」と「寛容」について、今一度考えていただくきっかけになればと願っております。